ロシア兵の墓
Part1
松山市御幸町「来迎寺(ライコウジ)」の裏山にある「ロシア人墓地」をご紹介いたします。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公秋山好古・秋山真之・・天気晴朗なれど波高し・・で有名な日本海海戦
明治37、8年日露戦争の捕虜は大部分が松山市に収容され、収容された兵士は6,000人。
病気になった兵士は、600〜2,000人を越えたときもあったといわれる。
松山が捕虜収容所になったのは、気候温暖と瀬戸内海のおだやかな港で輸送に便利そして道後温泉があることなどが理由であったと言われている。
その後松山から比較的健康な捕虜を、丸亀・静岡・豊橋・名古屋・福知山・熊本・久留米・福岡・善通寺の九箇所に転送された。
松山の捕虜に対する扱いは、極めて寛容で外出を許し道後温泉の入浴、郡中「現・伊予市」への集団遠足地元有志からお酒を寄与された言われている。砥部方面には陶器工場の見学、大陸の単調な風土に育った捕虜達には特に興味がわき、帰国後も「マツヤマ」の印象には深いものがあったと伝えられている。
松山で捕虜生活をし病に侵され異国の地で亡くなった兵士を手厚く供養した「ロシア人墓地」です。
今日久しぶりに「ロシア人墓地」に行って来ました。
墓地は、綺麗に清掃されていて各個人の墓石には花が添えられていた。
近年ロシアからゆかりの人が訪れ、松山市民の心温まる墓所の管理に感謝されています。
また、隣の墓所には1602年から築城された松山城築城奉行の足立重信の墓所もある。
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![]() 墓所は、各個人の墓石には絶える事なく何時も花が添えられている。 |
![]() 墓石は、母国ロシアを向いて建てられている。 墓地はご覧のように綺麗に清掃されています。 |
2006年3月
ロシア人墓地は、日露戦争で捕虜になり松山で亡くなられた戦士の墓地です。
墓標はすべてロシア向けて建立してあります。
この墓地は、地元の中学生が奉仕活動で清掃しており何時も花が絶えることなく献花してあります。
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